「このままでは、きっとだめになる」
そう思いながらも、何をどうすればいいのかがわからない。
子どもが生まれてから、夫婦関係はどこかぎこちなくなった。
とくに二人目が生まれてからは、何気ない言葉にもトゲを感じ、理解し合えない日々が続いている。
子どもたちは本当にかわいい。でも、夫婦でいることがしんどい。
家の中に安らげる場所がない──そう感じる夜が、少しずつ増えていった。
そんなとき、なんとなく本棚に手を伸ばした。
宮本輝の『錦繡』。十年前に一度読んだきりの一冊。
再びページをめくると、思いがけず、深いところに触れられた気がした。
『錦繡』は、かつて夫婦だった男女──有馬靖明と勝沼亜紀──の往復書簡によって綴られる物語だ。
二人はある運命的な事件をきっかけに離婚した。それぞれ過去に囚われながら、孤独を生きている。
十年の歳月を隔てて偶然再会した二人は、手紙という形式で再び対話をはじめる。
この「手紙」というメディアの性質が、物語全体に静けさと深さを与えている。
メールやチャットのように即座に応答する関係ではなく、言葉をじっくりと選び、間を置いて返される言葉を受け取る。
『錦繡』には、そんな “時間の濃度” がある。
物語の中で、特に印象的だったのは、亜紀の息子・清高の存在だ。
彼は亜紀の再婚相手との間に生まれた子どもで、生まれつき下半身が不自由であり、知能もやや遅れている。
八歳の清高が、ようやくひらがなを覚えはじめた。
練習帳には<みらい>という字が並んでいる。
学校の先生は、<みらい>とはあしたのことだ、と教えたという。
この場面に、不意を突かれた。
未来とは、遠くにある抽象的なものではなく、「いま」の延長線上にあるものだということを、私は清高の姿を通して強く感じた。
そして何より印象的だったのは、亜紀の変化だ。
物語の序盤で、彼女は清高の障害を“恥ずかしい”と感じていた。しかし終盤、有馬に宛てた手紙の中でこう語る。
私は清高を不具なら不具のままに、出来うる限り正常な人に近づけるよう、何が何でも<いま>を懸命に真摯に生きるしかないではありませんか。
そしてもうひとつ、亜紀が有馬に送った一言が、まるで自分に向けられた言葉のように響いた。
あなたは過去にこだわるあまり、<いま>ということをお忘れになっていらっしゃるような気がするのでございます。
私は、有馬と同じだった。
過去にこだわり、過去を悔やみ、それに囚われたまま「いま」を曇らせていた。
私はずっと、過去を引きずって生きてきた。
大学受験に失敗し、就職活動もどこか中途半端。
社会人になってからも、これといった成果を出せたわけでもない。
スキルも人脈も、目に見える自信もない。
ふと周囲を見渡すと、同世代の人たちは役職に就き、収入も上がり、堂々と仕事をしている。
それに比べて自分は──
胸を張れるような実績は、何ひとつない。
プライベートだって、夫婦仲は冷えきり孤立感ばかりが募る。
「このままではいけない」と、焦るばかりで空回りしていた。
そんななかでこの小説と再会したのは、偶然ではなかったと思う。
清高の姿が、そして亜紀の言葉が、私に語りかけてくる。
「いま」をどう生きるかが、「みらい」をかたちづくる。
それは理屈ではなく、どこか祈りにも似た感覚で、私の中に灯りはじめている。
ところで、私はクラシック音楽が好きだ。とりわけモーツァルトの楽曲を愛している。
亜紀はある日、モーツァルトの音楽について次のように語る。
「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん。そんな大きな不思議なものを、モーツァルトの優しい音楽が表現しているような気がしましたの。」
この言葉に出会ったとき、私は立ち止まらずにはいられなかった。
けれど正直なところ、いまの私には、まだこの言葉の本当の意味がわからない。それでも、何か大切なことが語られているような気がして、ずっと心に残っている。
モーツァルトの音楽には、「神秘的な広がり」と「人間の感情や温度」が同時に存在しているのを、素人ながら感じることがある。神と人間、喜びと悲しみ、伝統と革新、・・・。
亜紀がこの音楽に耳を傾けながら “生” と “死” を重ねるように感じた感覚は、私にも理解できる瞬間が来るのかもしれない。
私はもう一度、今日という日を丁寧に生きてみようと思う。
過去を悔やむ日があってもいい。未来に怯える夜があってもいい。
でも、それでもなお、「いま」を意識することができる。
そして、私にとっての『錦繡』がそうであったように、
誰かにとってこの作品が、“自分の時間を取り戻す”きっかけになれば──
そんな願いをこめて、この記事をここに置いておきたい。
<みらい>はまだ決まっていない。
<いま>を通じて、自らの手で作り上げることができるのだ。